お前らはDNAをモンテディオに遺せるのか?
死んだ人間のDNAを木のDNA塩基配列の冗長性があるところに墓標として置く計画があるんだってさ。
故人のDNAを含む木を「生きた墓標」に[HOTWIRED JAPAN]
私は骨を納める墓を作るよりもGEEK的には適切な墓だなぁと思ったわけだ。
んなもんで思ったのだが、おまいらはモンテディオに適切なDNAを遺しているのか?
サポートしている証を遺しているのか?
自分がモンテディオになんらかの自分の生きている証を遺していると思えることをしているのか?
コアサポートをすることだけが証ではないよ。
メインスタンドでどんなときもチームをしっかり見続けることや、極論試合になかなか都合が合わず行けなくても、学校や会社でモンテディオの存在を伝え続けることもDNAを遺すことだよ。
人それぞれ政治的イデアと同様に色々な宗教的イデアもそれぞれ持ち合わせていると思うし、それを言下に否定するつもりは全くなく尊重すべきモノと思っているのでその前提で読んで欲しいのだが、私は霊魂の実質的存在などなく人間は死んだら単なる物体でしかなくなり、それがただ単に単なる元素に戻るだけだと思っている。そこに宇宙に存在する創造神とかまた宗教観に持ち込まれるわけだが、そこまで言ったら何ら議論にならんので言及しない。まあサブスタンス(実体)としての霊魂や黄泉の世界は存在しないと合理的に考えている訳よ。
でも人は死んでもその人の存在は、家族、恋人、友人、仲間の意識の中に残されていく。詳細については敢えて述べないが、事実自分の心の中には夢の実現への道程半ばに命を奪われた友人がいる。その友人の記憶はその死から年月を経過した今でも鮮烈に残っているし、一生消えない。自分の行動規範の一部にはその友人の生き方が影響していると思うこともある。
「どれだけ多くの人」に心を残したのかということは必ずしも重要じゃない。ひとりだけでもいいからいつまでも消えない自分の心を残して死んで行きたい。友人の死で自分の死生観を確立してしまったのはその友人に対して不謹慎かもしれない。しかし、ひとりだけでも人の心に自分の心を遺すこと、心を遺す生き方を自分はしていきたいと思っている。
モンテディオという存在は命がないもの。自分が死んでもモンテディオは実体ではなく、概念的存在。対象が高等生物どころか生物でもない訳で、本当の意味での心はモンテディオの中に遺り得ない訳だが、自分が死ぬ前の意識を失う瞬間に自信を持って「俺はモンテディオに心を宿した」と自信を持っている何かを完遂することが出来るのだろうか。
繰り返すが、目立つことや大きな事を成し遂げることが必ずしも心を宿すことではない。モンテディオを媒介に自分の小さくても宿した思いを持ち続けることがモンテディオにDNAを遺すことであると思う。
だからこそ、苦しい時こそ、辛い時こそ、サポートを続けなくてはいけない。そうじゃなきゃ自分たちの生きている証は遺らない。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: お前らはDNAをモンテディオに遺せるのか?
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://yamagatadio.com/blog/mt-tb.cgi/1266

コメントする